幸福論3

甲斐:行動の結果として現れるしるし。努力した効果。期待できるだけの値うち。 甲斐性:物事をやり遂げようとする気力、根性。また、働きがあって頼もしい気性。多く、経済的な生活能力をいう。 先日、髪を切ったんですが、切ったあとに美容師さんが「長い方が似合うかもね」って言われました。 おいおい、切った後でそんなぁ・・・。甲斐がないというか。 なんか朝の天気予報を見て傘をもってったけど、 雨が降らなくてなぜだか悔しいという感じに似ています。 結果は、むしろ晴れていて良いはずなのに、すっきりしない。 せっかく、傘をもってきたのだから役立たせておくれよ。 そういう「甲斐」だとか「期待」だとかを、日々求めているのだなぁと感じました。

働き甲斐がある仕事をしたいとか、やりがいがあることをしたいとか、昔はよく考えていました。 今でもそういうところがありますが、結局、そうでなくても面白かったり、楽しかったり、満足したりします。 今がそういう状況だったりします。 仕事は決して難しくないですし、時間があれば趣味に費やせますし、 一応、研究と称して作りたい物をつくっています。 どれも決してそれ程の「甲斐」があるかと言われれば、正直、ないのですが 充実はしてるのです。 別の話になりますが、 ある女性雑誌で「運命の恋をつかむ方法」みたいな特集がありました。 それを読むと、悪く言えば「手近な男で手を打ちなさい」と言っているような気がしました。 目の前にいる男で満足しろ。「あぁ、そうね。それでもいいかな」 でもやっぱり、隣国のイケメン俳優みたいに歯の浮くようなことを 言ってくれる男の方がいいんですかね。 女性はこの雑誌を読んでどう解釈するのでせうか。 それでも意固地になって、自分の「甲斐」や「期待」に適う相手を 待ち続ける人もいるでしょうし、手近な男でも満足できると知って 彼氏を作って、幸せを手に入れる人もいるでせう。 どちらが良いかわかりません。 待ち続けて、本当に良い人とめぐり合うかもしれませんし 結婚して、繰り返される毎日を虚しく思う人もいるかもしれません。 その逆もあるでせう。 要するに、どちらでも良いと思うのです。 「甲斐」を求めたり「期待」を持ち続けることは悪いとは思いません。 だいぶ前に書いたことですが、 「どの道を選択をするよりも、選択した道でどう頑張るかの方が大事」ということも 少しは考えた方がいいのかなと思いました。 それでも私は恋愛でいえば運命の人が現れるのを待つ方を選択しました。 その現状に今は充実していますし、自分で選んだ事だからと納得もしています。 たぶん、今はどこにも「甲斐」も「期待」もしていません。 あるのは不安だけ。現実的に私は、今頑張らないと未来はないですので。 とことん甲斐性の無い男です。 「甲斐」とか「期待」とかが幸せのキャピタルではないと感じ始めたのですが、 では、それ以外に幸せの資本はあるのかどうか、考えています。 そもそも、そういう幸福の必要条件を考えるのは間違っているかもしれません。 なにしろ、周囲からリサーチできることは十分条件に限られますから。 ある意味、満たされている今日、自分が幸福だと感じることをピックアップしても一貫性がありません。 なんの変哲も無い裏路地を見て涙を流しそうになったり、 たくさんの時計や異国の民芸品があちこちに置いてあるレストランに入って、興奮してしまったり。 まったく予測ができないのです。 でも、確実にそのときは私は感動しています。おそらく、幸福なのです。