お墓の写真

先日の大学のミーティングで、後輩がお墓の写真をモブログ(モバイルブログ)した話になった。 その後輩は自分の家のお墓を真正面から撮ってアップロードしている。 その話題を持ち出した先輩と私は同じ感覚で、抵抗を覚えたのだけれども その場にいた半数以上の人はお墓を写真撮影することに抵抗はないという。 「なにか写っていたら嫌だ」という意見もあるけれども、それとは別の抵抗感を感じた。

話は変わるけれども、この春、友人数名と箱根へ小旅行しにいった。 1日目に近場の寺を観光した。早雲寺といって、北条五代のお墓があるところである。 その墓地がたいそう美しかった。良い具合に苔がふき、木漏れ日が差し込み。 そこで写真をいくつか撮ったのだけれども、どうもその日の夜から熱にうなされてしまった。 小旅行の半分以上を熱で寝込むことに費やした。 心身共に休むという目的はある意味では達成できたのかもしれない。 そのおかげで印象深い旅行ではあった。 その一件がトラウマになったこともあって、お墓を写真に撮るとこに抵抗はある。 そもそも、この日の議題は「ユビキタスコンテンツのパブリック度(プライベート度)」という話で その議論の続きでは、お墓の持っているネットワークが見えるからではないかと指摘をうけた。 ここでいうネットワークとは、その家の家系であったり、歴史であったり。 つまり、お墓という(あるいは家系という)プライベートなネットワークが存在するお墓を 写真に撮り、ブログにアップロードすることで、そこで一気にパブリック度が増す。 そこが抵抗感の原因だ。(私の場合は写真に残る時点でパブリック度が増す) たとえ他人のお墓であっても「見てはいけない」物を見てしまっているような気がしてしまう。 それはそのお墓の写真を通して、その裏にあるネットワークを想像してしまうからだ。 では、教科書に出るような歴史的人物の場合はどうかというと、それほど抵抗はない。 それは歴史的人物の出生から家系から人生から、なにから何までパブリックになっているからだと思う。 もちろん、パブリック度が増しても抵抗ない人もいる。 その点では人の感性の違いかもしれない。 強いて言えばその先輩と私はいわゆる田舎出身で、信心深い風土で育ったからかもしれない。 私は帰省したら仏壇に線香を供えるし、盆にはお墓参りもする。 何かあれば神社に行って拍手をうってくる。 私にしてみれば、その場に行ってこそ祈るべきだ、という考えがあるのかもしれない。 ミーティングの話題にもでた「聖地」という感覚に近いのかもしれない。 「その聖地を写真にとるとは何事だ」 これでは議論の対象にならないけれども、 もっとも、私のような人は聖地だからこそ、あえて誰かに見せる事はしないのかもしれない。 そのネットワークをプライベートにしたい欲求があるということだ。 お墓にしろ神棚にしろ仏壇にしろ、「あちら」と「こちら」を結ぶ重要なネットワークで それを他のネットワークに繋げようとはあまり思わない。 というか、私にはその理由がない。自分の中で完結しているからだ。 閉じていると思われるかもしれないが、お墓ならお墓の裏で広大なネットワークが広がっている。