落としどころ

だいぶ前のTVBrosで爆笑問題:太田氏が「落としどころ」というテーマでコラムを書いていた。 どうやら日本人は「落としどころ」を探る傾向がある。というような話である。 例えば、青少年が猟奇殺人を犯した事件があった時、我々はどうやらその要因を探りたがる。 家庭環境だとか、精神的異常があったのではないかとか。 そして、インターネットが原因だとかゲーム脳が原因だとか、 わけの分からぬ所へ責任をなすりつけようとしてしまう。 それらを批難することで自分たちが安心する。 それが「落としどころ」

先の脱線事故にしても、その「落としどころ」が転々とした。 最初は、JRの思惑で「置石」をひっぱりだし、やがて、運転手の精神状態 JR本体の体質異常、そして、車両や路線の設計段階での責任を問うようになった。 我々は責任がどこにあっても良かったのではないかと思ってしまう。 もし運転手が生きていれば、彼を責めただろうし、もし「置石」が原因だったら その犯人探しに躍起になっていただろう。 アメリカの行動にも触れられていた。 最初は大量破壊兵器を所有しているからという理由でイラクを攻撃した。 そのうち、テロ支援国家だからだとか、独裁国家だからだとか。 今では、何でこういう状況になってしまったか分からなくなってしまった。 そのイラクで命を落とした若者に対しても、我々は自己責任だとして批難し 自分たちは納得して安心して、もう忘れてしまっている。 自分達では理解できないことが起こると、我々はそういう「落としどころ」を探ってしまう。 妥協とも言われるが、どうも納得いく妥協と、そうはいかない妥協がある。 例えば、アメリカ牛肉の全頭検査の問題にしても、20ヶ月以下の牛が安全だなんて どうみても政治的決着だと思わざるを得ない。 では、納得のいく妥協とはなんだろうか。 経済活動なら簡単に考えられる。例えばある商品を売る側と買う側。 売る側は高く売りたいし、買う側は安く買いたい。 市場においては、需要と供給のバランスによって成立するけれども 一対一の場合は、信頼度が大きく作用する。 互いにある数字で妥協したとしても、どちらもリスクを負うのだから そのリスクを担保するのはお互いの信頼の強さである。 つまり、日々我々が「落としどころ」を求めても、どこにも自分達にリスクはないし 適当に信頼できる保険をもってきて、自分の中で不可解と妥協してしまう。 実質的なその不可解な出来事とはなんら関係ないし、自分の中で完結してしまうのだから問題ないように見えるが、 マスコミ全体、世間全体、政府全体が、この理論で動くとなると話は別だ。 私達はもっと考え続け、悩み続けなければならないと思う。 先の大戦の反省にしても、拉致の問題にしても、とても複雑な事態だ。 適当に「落としどころ」を見つけたとしても、それは問題の先送りだ。 ここで重要なのは対外交渉においての「落としどころ」は危険だということだ。 例えば、日中間の問題で、首相が妥協して靖国神社参拝を取りやめたとしても 何の解決にもなってない。(個人的な意見では、ここでなにも日本が折れる必要なないと思う) もっと危険なのは交渉が成立しない相手に「落としどころ」を求めることだ。 そもそもの交渉において担保も信頼もないのだから、一時しのぎの妥協は逆にリスクを被るだけだ。 このままでは北朝鮮は核保有を武器に、最悪、アメリカと国交正常化なんてことも有り得る。 (パキスタンがその前例だ)そんなことになったら、6ヶ国協議なんて無意味だし、日本の立場も危うくなる。アメリカにさとされ、なくなく北朝鮮と国交正常化なんて最悪な妥協をするに至るかもしれない。 (もちろん、拉致問題とかはうやむや) それは極端な例だが、安易に「落としどころ」を求めるのは危険だということだ。