メディアの哲学「言葉」

「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」 本居宣長の言葉です。 ここでの「姿」をは「言葉」のことです。 一見、逆だと思われますが。 小林秀雄が「言葉」と題して

このことについて、以下のような意味の解説をしています。

「言葉」を使うことは容易である。 しかし、意図したように意味が媒体に付加しているか分からない。 さらに言えば、意味さえ伝われば良いというものではない。 その考えは、言葉が生まれた歴史を軽んじることになる。

それは、「言葉」の存在意義をも揺らがすことになる。

(引用すればいいんだけど、手元に本がないので意訳)

普段、何気なく使っている「言葉」は、 記号と意味が密接に関係していて、 特に漢字はいくつもの意味を付加し、 だからこそ言葉遊びができるものと思います。 よくよく考えてみれば「言葉」も「メディア(媒介)」であり 同じ「言葉」でも、使う状況によって意味の込め方が変わってきます。 慎重に言葉を選別する必要があるかもしれません。 しかし、私たちのコミュニケーションの一番の目的は 「意」を伝えることであり、「言葉」は手段に過ぎません。 ですから、テレパシーやらがあれば別に要らないのです。 「意」を伝えるために、また、伝わりにくいときは 様々な言葉で取り繕うことをします。 それが短絡的に「言葉」の軽視になるとは考えにくいですが 安易な言葉の濫用は、別の見方をすれば「言葉」の 新しい用途のトライアルとも考えられます。 よく言われる問題で 「言葉の使い方が乱れている」という考え方と 「それは言葉の進化だ」という考え方です。 私はどちらかというと後者と同意見なのですが。 結論から言えば 様々な使用法のトライアルを経て淘汰され いつしか、生き残った「言葉」の使い方が 「常識」になるのではないかと思います。 そして、常識となった「言葉」に付加した「意」が また差異を感じるようになってくるのかもしれません。 と、ここまで考えておきながら 本居宣長小林秀雄の「言葉」が今の時代でも腑に落ちるのは いかに正しい「言葉」の使い方をしているわけで ますます説得力があるわけです。